2011年11月17日木曜日

フィールドから見えるもの②

日常に織り交ざる声―松山「俳句甲子園」―



夏といえば甲子園。ただ、高校野球ではない、競技は「俳句」だ。「大街道商店街」は、松山城のふもとに広がる旧城下町・松山市中心街にある全長約500mの大きな通りである。衣食住さまざまな店舗が入っており、生活の中心ともいえる商店街である。しかし、ここは8月になると真夏の暑さに負けないほどの熱戦が繰り広げられる「聖地」と化す。松山市が市制120周年を迎えた2009年、私は聖地でそれを観戦していた。

松山市は文学の街。正岡子規生誕の地、夏目漱石『坊っちゃん』の舞台、隣の銀天街商店街には多数の生徒の俳句、市内各所に作品を投函する「俳句ポスト」、ちょうど大街道を松山城側に抜けると「坂の上の雲ミュージアム」。そうした背景をもった地で「俳句甲子園」が開始された。

「俳句甲子園」は51組のチームで行う俳句バトルだ。 互いに俳句を披露しあい、作品を鑑賞しあって勝負する。初々しい高校生たちが真剣に競い合う姿は見ていて気持ちいい。10時過ぎに「プレイボール」すると、一本に伸びる大通りのあちこちで、俳句を詠む男子高生の声、観客の歓声があがる。大街道で行われる年に一度の「祭」だ。しかし、よく見てみると商店街には大会参与者以外にも多くの人々の行き来が見受けられる。2枚の写真は普段の商店街の様子と大会が行われる日を別々に撮影したものではない。「いいものはいいんです!」とディベートで追い込まれた女子高生の必死な叫び声に混じって、両側からは呼び込みをする店員の声が聞こえてくる。熱気がこもる商店街で、靴屋の店員が店先の靴を「クール」に並べ替えている。大会が行われる日も大街道商店街はいつもとかわらず営業しているのだ。立ち止まって観戦する人、自分たちの世界に浸って通り過ぎるカップル、入場も退場もないから、そこに集う人々の動機も態度も一様ではない。普段の生活の場が、「祭」が行われることによって「俳句の場」になるのでは決してない。俳句表現が商店街の「日常」の景色として溶け込んでいる。


 ただし、大街道商店街が舞台となるのは一日目の予選だけであって、決勝戦は「松山市総合コミュニティセンター」へと舞台を移す。大街道に比べると「祭」としての側面ではなく、「コンテスト」としての側面が非常に強くなる。決してそれ自体は否定されるものではないが、やはり観客や店員、パチンコ屋の騒音、車の音、会話、風や差し込む光など商店街という生活の場所に響く「五・七・五」の方が若々しい声と表現には馴染みがいいように思える。そこには、単なる文学(芸術)としての俳句や、解釈としての俳句ではないものが存在している。気負わない芸術としては、私がフィールドとしている「詩のボクシング」と「俳句甲子園」は共通している。「詩」と「俳句」というジャンルは違えど、前者は1997年、後者は1998年という同時期に大会が開始されているのも奇妙なことだ。「俳句」や「詩」を芸術として高めるのではなく、われわれの些細な日常の中に「詩」や「俳句」を発見する。その魅力が「読む場」を生み、「聞く場」を生み出しているのではないだろうか。

撮影・文: 尾添 侑太(関西学院大学社会学研究科)

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